そこには誰もいないのに、確かに母の声がする。
「穂香(ほのか)。早く朝ご飯、食べちゃって」
扉が閉まると、母の声は聞こえなくなった。
穂香には、何が起こっているのか理解できない。
「……え? 今の、何?」
呆然としている穂香に、レンは「あなたのお母さんが来たんですよ」と伝える。
「でも、お母さん、いなかったよ⁉ 声はしたけど、いなかった!」
そんなことあるはずないのに、そうとしか言えない。
レンは「ああ」と言いながら小さく頷いた。
「おばさんは、メインキャラではなくモブキャラですからね。立ち絵がないんですよ」
「モブキャラ!? 立ち絵? 何を言ってるの?」
動揺する穂香を、レンは不思議そうに見つめている。
「モブキャラは、重要じゃない登場人物のことです。ほら、マンガやゲームでは通行人に顔が描かれていないことがあるでしょう?」
「それとお母さんの姿が見えないことになんの関係が……って、あっ! これは夢だった」
穂香は、ホッと胸をなでおろした。レンは、そんな穂香の肩にそっと手をおく。
「夢ではありませんよ。これは現実です」
「は?」
穂香に向けられた緑色の瞳は、どこまでも真剣でふざけているようには見えない。
「初めまして。恋愛ゲームの世界に閉じ込められてしまった主人公の白川穂香さん。私はあなたの幼なじみ兼お助けキャラ役の高橋レンです。この世界から脱出するために、協力しましょう」
「……」
穂香には、レンが何を言っているのかさっぱり分からなかった。
ニッコリと微笑むレンを無視して、穂香はこのおかしな夢から覚めるためにもう一度ベッドにもぐりこむ。
すぐに眠りへと落ちていく。
まどろみの中で、聞きなれた電子音が聞こえた。
「……変な夢、見た……」
穂香がベッドから起き上がると、ベッドの側に立っている緑髪の男子高校生が、慣れた手つきで穂香のスマホを操作してアラームを止める。
そして、さっき聞いた言葉を繰り返した。
「初めまして。恋愛ゲームの世界に閉じ込められてしまった主人公の白川穂香さん。私はあなたの幼なじみ兼お助けキャラ役の高橋レンです。この世界から脱出するために、協力しましょう」
「いやいやいや! 私に幼なじみはいませんからっ! どうして夢から覚めないの!?」
レンはあきれたようにため息をつく。
「穂香さん、主人公が『起きない』という選択肢は、この世界には設定されていないんですよ。設定に無いことは選択できないので、同じイベントを延々と繰り返すことになります」
「いや、だからイベントって何……。はぁ、もういい。これは、そういう夢ってことなのね」
穂香は、今すぐ夢から覚めることを諦めてベッドから下りた。
戸惑う穂香に、涼は少し拗ねたような顔をする。「穂香が、付き合ってることをできるだけ隠したいって言うから、これでもだいぶ我慢してるねんで? なぁなぁ、文化祭は一緒に回っていい?」涼は急に胸ポケットを叩くと「しつこい男は嫌われるって……うっさい、ジジィは黙っとれ!」と小声で話している。「あ、もちろん、穂香が嫌なんやったら断ってくれてもいいけど、ほら、俺って幸せな気分を味わっておかないと死ぬやん? 俺が長生きするためにも、できるだけ穂香と一緒にいたほうがええと思うねん」「涼くん……」涙を浮かべながら、穂香は抱きついた。「良かった……。私の妄想じゃなくて。私達、ちゃんと付き合ってたんだね」「え? ええー!? どういうこと!?」戸惑いながらも涼は、穂香を抱きしめた。*その一か月後。現実の世界に戻った穂香と涼は、相変わらず仲良く付き合っている。(と言いたいところだけど……)穂香は、隣を歩く涼を見て、こっそりとため息をついた。(最近の涼くんって、ボーッとしてたり、何か悩んでいそうだったり、急に赤くなったりして変なんだよね)「えっと、涼くん、大丈夫?」「へ? 何が!?」「何がって……もしかして、穴織家のおうちのことで何かあった?」「ないない! 何も問題ないでー」ニコニコと明るい笑みが向けられる。「じゃあ、えっと&
賢者から怪しい瞳を向けられて、穂香は一歩後ずさった。(研究だなんて怖い。でも……)「りょ、涼くんのためなら――」そう穂香が言ったとたんに、涼は賢者を攻撃した。また見えない壁に弾かれ攻撃は届かなかったが、賢者は明らかに怯えている。「暴力反対!」そう呟いた賢者の目には涙が浮かんでいた。「死にたくなければ、さっさと教えろ」「ちょっとした冗談なのに……」「今のは嘘やな。ということは、本気で穂香を研究するつもりやったってことや」「分かった。君は怒らせてはいけない奴だってことは分かったから。落ち着いて!」穂香は、涼の袖を小さくつかんだ。「涼くん、教えてもらおうよ。私、涼くんとずっと一緒にいたい……」「穂香……」ため息をついた涼は、少し落ち着いたようだ。「分かった。もう手は出さん。その代わり、賢者も穂香には手を出すな」「はいはい。じゃあ、学校が元に戻るまで君達の話を聞かせてよ。それならいいでしょ?」「まぁ、それならええか」穂香と涼は、それぞれの抱えている事情を話した。話が進むにつれ、賢者の目はキラキラと輝いていく。「じゃあ君は、その恋愛ゲームってやつの中に閉じ込められてて、そっちの君は次元の穴を閉じることができる一族なんだね。なんて面白い!」小躍りしながら喜ぶ賢者を見た涼が「本当にコイツ、頭ええんか?」と疑っている。そのとき、それまで静かにしていたおじいちゃんが声を
(紫色の髪?)しかもフードの下に隠されていた顔は、とても整っていた。(女性……ではなく、色白イケメン!? あれ? この人、私の恋愛相手候補とかじゃないよね?)混乱する穂香をよそに、涼は紫髪の青年をにらみつけている。「おまえ、こんなことをして何が目的や」冷たい問いかけに、青年は首をかしげた。「あれ? 勇者じゃなかった。君、誰?」「それはこっちのセリフや!」「わっ、ちょっと待って! 私は戦闘得意じゃないから!」涼の攻撃をかわしながら、青年は何もない空間に手をかざした。すると、そこに穴が開く。穴の中は真っ暗だ。その穴の中に、青年が飛び込むと同時に穴も消える。「涼くん、大丈夫?」穂香は、呆然としている領に駆け寄った。「大丈夫やけど……」涼の瞳は、先ほど穴が開いた空間を見つめている。「あいつ、穴を開けた上に、閉じた」「それって、何か問題が?」穂香の質問には、おじいちゃんが答えてくれた。『化け物は、穴を開けられるが閉じることができん。だからワシらが代わりに閉じて回っている』「ということは、さっきの人は化け物じゃないってこと?」『分からん。より強い化け物の可能性もあるな』「そんな……」『先ほど涼も言っていたが、そもそも、この学校を取り巻く気配がおかしい』赤い瞳が穂香を見つめている。「穂香、も
涼が言うには、学校全体が怪異に飲み込まれてしまっているそうだ。「学校全体が!?」「早く犯人探しをせんと……」涼が校内に入ると、着ている制服が変わった。それは、夢で見た軍服と着物を混ぜたような制服だった。「涼くん。それ、前の学校の制服なんじゃ……? あ、髪も伸びてる」涼の長く赤い髪は、一つにくくられていた。「ここに来る前は、そういう感じだったんだね」「み、見んといて……」「え?」「お、俺の黒歴史、見んといてぇええ!!」「ええ!?」涼は、半泣きになっている。「ちゃ、ちゃうねん! これは、俺の趣味じゃないから! だって皆、こういう制服やったし、穴織家の一族のもんは、力が強くなるからとかいって、髪を伸ばしてて!」「落ち着いて、大丈夫だよ! その姿、夢の中では何回か見てるし! それに、その姿もすごくかっこいいよ! ほ、ほら、アニメとか漫画のコスプレみたいで!」その言葉が涼の傷をえぐったらしく、涼は「あああああ!」と叫びながら頭を抱えている。『涼! 遊んでいる場合か!?』「はっ!? そうやった! 犯人を捜さんと!」すばやく周囲を見回した涼は、「アカン、怪異の影響で学校内に入った生徒の服装が変わっとる! 誰が誰か分からん!」と首をふった。穂香には、相変わらずモブの姿は見えていない。『この中から瘴気の発生源を追えるか?』「無理やな。学校中に変な気が充満してて、元をたどれへん」『ならば……穂香なら犯人を見つけ
【同日 夜/自室】(涼くんと別れて、自分の部屋まで帰ってきてる)なぜか夜の自室にいる自称幼馴染のレンには、もう慣れてしまった。「穂香さん、お帰りなさい」「ただいま……」「なんだか元気がありませんね? 穴織くんと、うまくいってないんですか?」「そうじゃないんだけど。ねぇ、レン。この恋愛ゲームの世界ってハッピーエンドあるよね?」レンは、緑色の瞳を大きく見開く。「もちろんありますよ。ゲームなんですから」「そうだよね? だったら、もし、涼くんに不幸な設定があったとしても、私がなんとかできる可能性ってあるのかな?」「あるでしょうね。恋愛相手が不幸な状態では、向こうも告白なんてしてくれないでしょうし」「だよね⁉ じゃあ、やっぱり私が涼くんの問題を解決できるかもしれないんだ……そうと分かれば」穂香は勢いよく立ち上がった。「明日に備えてもう寝る!」「頑張ってくださいね」レンが立ち上がると、風景が変わった。【10月11日(月) 朝/玄関】(あれ? 日曜日が飛ばされて月曜日になってる!?)『頑張る!』と張り切ったものの、何をしたらいいのか分からず、1日がすぎてしまったようだ。(家にいてもイベントが起こらなかったから、学校に行けば何か起こるかな?)玄関を開けると赤い髪が見えた。こちらに気がついた涼は、ニコッと明るい笑みを浮かべる。「穂香、おはよう!」「おはよう、涼くん」
それからは、配布する用のプリントを印刷したり、文化祭準備の手順を確認したりして、気がつけばお昼どきになっていた。【同日 昼/教室】目の前に浮かんだ文字を見て穂香は、向かいの席に座り作業している涼に「お腹空いたね」と声をかける。「ほんまや、もうこんな時間か!」あわてて立ち上がった涼は、「行こう!」と、穂香に右手を差し出した。「どこへ?」「そりゃあ、もちろん『遊びに』」満面の笑みの涼に手を引っ張られると、風景が変わった。【同日 昼/商店街】(学校から、商店街に飛んでる)そこは、学校付近にある商店街だった。学校帰りの寄り道は禁止されているが、ここはひそかな寄り道スポットとして、生徒の間では有名だ。「穂香、ここで買い食いしよ!」「え? う、うん、いいけど……」「どこか行きたいところ、ある?」「ごめん。私、学校帰りに寄り道したことないから、どこのお店がいいのか分からない」「そうなん!? 実は俺もなくて」「ええっ!? 涼くんはあるでしょう? だって、友達多いよね?」「いや、放課後は、いつも学校の怪異を調べてたから、本当にやったことないねん!」「そうなんだ……。じゃあ、今日は、端からお店を全部見てみる?」穴織の表情がパァと明るくなる。「よっし、行くで! 穂香」「おー!」その後、2人は楽しく初めての食べ歩きを楽しんだ。【同日 夕方/商店街】